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最後の仕事。

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9月のある火曜日の朝、仙台駅を出発したパートナー企業の責任者達と東北の仲間の皆さんを乗せた大きなバスは、我々のビジネスの東北・北海道エリアの中核となる東北でも最大級・最新鋭の物流施設に着いた。

バスを降りると約一年ぶりに一度だけお会いしたにも関わらず、出迎えてくれたその施設の責任者が穏やかな笑顔で僕に声をかけて握手をしてくれた。あんなに大変なことがあったのに覚えていてくれていた。

七夕祭りに沸く昨年の8月11日、僕は仙台港にそびえるその施設で、東北エリアの同業の仲間の皆さんへの同じ地方エリアの事例として講演をさせていただいた。そのときにその責任者の方に施設をご案内頂き、講演も聴いていただいた。
僕は地元に帰り、お会いできたことへの感謝のメールをその方に差し上げたところ、温かい言葉で返してくれた。

その7ヶ月後に津波にのまれ、近隣に火災が発生するその施設の空撮映像をテレビで見る事になるとは想像もしていなかった。

信じられない映像が立て続けに放送される中で、その施設でお会いした沢山の方々や地元の皆さんの安否とともにその責任者のお顔が何故か浮かんできてとても心配だった。

結果的にその責任者の的確な判断でぎりぎり数分のタイミングで全従業員の命を救ったと聞く迄に、震災発生からかなりの日数が経っていた。

火曜日の午前、我々は予定よりも1ヶ月も早く全面稼動を再開した施設を再度見学した。3月11日の状況をその場にいらっしゃった方の言葉で克明に伝えていただいた。周りにはまだ損壊した建物と、流された車が沢山積まれていた。

とてつもない揺れで座り込んで崩壊する壁と棚の中でなんとか身を守り外に出た。

施設外で点呼をしている時に津波がくるという情報でトラック用スロープを全員で駆け上がった。

津波に気付かない人に大声で声をかけ、溺れる何人かの人をロープで助けた事。

近くの燃え続けるコンビナートの恐怖。

まったく通信が途絶えるなかで2日間寒さをしのいだ場所。

倉庫にある水とお菓子、そしてトラックのヘッドライトで過ごした夜。

3日目、水が引いてもひざ迄浸かる汚泥。

そして流されて行く車と人の残像。

一緒に見学した被災地に住む同業の皆さんが驚いて聞いているのだから、僕にはとても想像がつかない状況だった。
死と直面した実体験は淡々と言葉少なく語っても充分な説得力があった。

昨年夏に仙台で知り合った同業の皆さんに、震災後どのように連絡して良いかを戸惑っていたが、勇気を出してメールをしてみたら、皆さん不安の中、前向きなお返事を返してくれた。
被災地の仲間の為に何か出来ないかと歯がゆい日々を送っていたけれども、僕にはなす術も無く時間だけが経過していた。

パートナー企業の尊敬する執行役員の方と何度かディスカッションする中で、完全再稼動したその施設で9月に行われる東北の復興支援会議で皆を勇気づけて欲しいという講演依頼があった。

テレビでしか被災地を観ていないのに、何が話せるのだろうと何度も自問自答したが、その執行役員は

「いつも話してくださる素のままに、熱い思いを伝えてくだされば。心は通じます。」

と勇気づけていただいたので、出来ることがあればと引き受けさせていただいた。

火曜日の午後、被災地の同業の皆さん数十社、一部上場企業であるパートナーの社長、副社長、執行役員、各部門の責任者の前で講演させていただいた。ベストは尽くしたつもりだし、経営陣や同業の方々から勇気づけられたと暖かい言葉を掛けていただいた。本当のところはわからないけどね(笑)

そしてその夜、仙台市内のホテルで行われた懇親会で、僕のことを覚えていていただいたその施設の責任者の方が実は定年退職されるとのことで、パートナー企業の社長から花束を送るサプライズな演出があった。花束を受け取り、挨拶を済ませて壇上から下りてきたその責任者に、僕を覚えていていただいたお礼をすると「昨年の講演に勇気づけられましたから。」と。

僕は人生の大先輩に「3月11日のあの映像を見た時にお顔が浮かんだんですよ。震災なんて起きない方が良かったけど、部下の命を救い、施設の早期稼動再開を指揮し、この会社での最後に誰も経験できない素晴らしい仕事をされましたね。」と話してしまった、生意気にも。
パートナー企業の社長と3人で話しながら、僕は泣いてしまった。

圧倒的な指導力を発揮してというタイプにはけして見えないけど、誠実であの穏やかで暖かみがある人柄だから部下に信頼されて、成し遂げられたのかもしれないなと感じた。

「退職後、落ち着かれたら山梨にも遊びに来て下さい。」とお話ししたら、「名刺もパソコンも津波で流されてしまったので。」とあらためて名刺交換をした。

沢山の皆さんとお話しし懇親会もお開きとなり、その責任者の方と仙台駅まで一緒に歩かせていただけた。光栄だった。駅前でもう一度握手をさせていただいた。

男の仕事人生としてカッコいいなと思った。本当に、お疲れさまでした。

勇気づけて欲しいといわれて講演したけど、沢山の人に出会い、結局僕が勇気づけられた仙台だった。なかなか会う事も無い経営トップの皆さんとも沢山話せた。

被災地の仲間に勧められ、水曜の午前に短い時間だけどあの仙石線に乗って沿岸部に行ってみた。半年経つのにまだまだ被害はそのままで、時間はかかるだろうなと思いつつも、きっと大丈夫かなと感じた。明確な根拠も無いけどね。


本当に皆さんありがとうございました。

歳月。

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考えた事をtwitterでつぶやきだしたけど文字数がぜんぜん足りないので久々にこっちに書いてみた。

IMG_0005_s.jpg15年間暮らしてきたとびっきりチャーミングでオレンジ色が似合うカロッツェリア・マジョーラ出身のイタリア美人が僕の浮気心に気づいたのか、今朝、機嫌を損ねてサイドブレーキが凍り付いて動いてくれなかった。 こんな事は始めて。ここ数日寒かったしね。

金がなかったから当時高速道路を使わず山梨から環七のショールームに10年で13万キロ走った安いイタリアの大衆車に乗って、とことこわくわく逢いに行ったのがこの前の事の様。毎日雑誌やカタログ見てたな。あんな車で通勤したらあの最悪な上司がいる会社も楽しくなるかなぁって思ってたけど、実際買っても会社は楽しくならなかった。

自家用車って生涯で2台しか買った事ない。物持ちがいいんだよね。大好きな物をずっと使いたいんだよね。思えばリーズナブルだなぁ。

腕時計は買ってから17年間毎日つけている。もちろんオーバーホールはしたけど。
Guitarを弾きだして30年以上になるけど、買ったGuitarは4本。まともなのは2本かな。今の
Telecasterは7年目。沢山弾いてパリのステージにも連れて行ったよ。

そして今日、12年位使っているRotring社の製図用シャーペンの長いペン先が、僕の左手人差し指の爪の間を突き刺した。

考えてみたらこのBlogも8年目、最初は自宅サーバだったなぁ。
小さな企業の代表取締役になってから10年たった。
髭をはやしてからも多分10年くらい。ピアスを空けてからは・・・・。わかんない。

いい物件があったらいつでも引っ越せるからと、ずっと賃貸マンションで通してきたけど、こればかりは累計するといささかリーズナブルではないかな・・・。

嬉しい事も難しい事もたくさんあるけど、成長したのかなぁ。
歳を重ねるほど、毎年沢山の人との出会いがあるし、いまも素晴らしい人達に支えられてる。一緒に仕事をしたり出会った人たちもみんな成長して自立した大人として活躍してる。家族も尊敬してる。

幸い毎年、去年よりいい年になってると思ってる。少しずつでもね。
つらい時期でも過去に戻りたいとかじゃなくて、これはこの先ずっとは続かないからって思ってる。
だからあの頃に戻りたいと思ったことはないんだよね。いつも今がいいの。

この15年の歳月のスピードは凄まじかったけど、これからはもっと加速度を増すんだろうね。
今年も始まったばかりだけど、来週末でもう1月も終わり。
ま、このまますぐにじいさんになると思うので、若くいようと思うのではなく、ふざけたおっさんを続けたいと思う。

別れ。

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通夜に行ってきた。

業界の鬼と言われた大物が突然の事故で他界した。ショックだった。殺そうとしても死なないような男だった。

僕は約20年前に某メーカーに就職して営業職に就いた。他界した彼が営業部長をつとめる会社の担当になった。同業者や仕入れ先、彼の部下の誰もが恐れる存在感あふれる強烈な男だった。彼は誰も信用しない男だと思っていた。正直かなり苦手だった。20歳以上年下の僕には打つ手はなかった。
けど彼は自分のお客さんの為なら何でもしていた。いつしか何故か僕を信頼してくれて大事にしてくれていた。一緒に数千万円の仕事をいくつかした。

僕の社内での所属が変わり、担当が僕から別の社員に変わると決まったとき、彼は僕の会社の東京の本社に電話してブチ切れしたそうだ。

「社長を出せ。あいつと仕事をしたい。誰が担当を変えると決めたんだ?」と。

嬉しかったが正直、また担当するのはタフだった。

その後、僕が独立して始めたソリューションは明らかに彼のビジネスにとって面白くないものだったと思う。それでも「いいところに眼を付けた。さすがだ。」と評価してくれた。

そして何年かして、「自分の会社を作るから相談にのって欲しい。」と連絡があった。小さな喫茶店の片隅で「税理士はどうしたらいい?社労士は?評価制度はどうしてる?」と無邪気に相談してくれた。

ある日、某建設会社の社長と、僕が尊敬する若者の紹介で会う事になった。
もちろん初対面だったのに、その社長は僕の事を知っていた。
その建設会社は他界した彼の和風豪邸を受注したとのこと。そしてその他界した彼はその建設会社の社長に僕の話をしたと言う。

「面白い奴がいる、いい奴だ」と。

正直驚いた。
その社長は、他界した彼が人を褒めるのをあまり聞かないので覚えていたという。

その家での事故だったとのこと。何度も「遊びに来い。自慢の檜風呂があるぞ」と言われたけど、結局行けなかった。

行かなくて良かったかもしれない。最後がより鮮明にイメージ出来るのは辛い。日曜の午後、自慢の風呂を涌かす薪を準備しているときの事故と聞いたから。

訃報は知っていたが、しばらく会っていないその建設会社の社長も伝えてくれた。知らなかったら辛いだろうからと。

年末のこの時期になると他界した彼は毎年カレンダーを持って満面の笑みで商売上ではライバルでもある僕に会いにきてくれた。

「頑張ってるな。オレも頑張るぞ。来年もよろしくな。」とね。

そのカレンダーはいつも僕のオフィスの一番目立つところに張ってある。

けど今年、カレンダーは来なかった。

今週の金曜の午後、都内で約100社の同業者の集まりでちょっとした講演することになっていて、原稿に眼を通していると彼から学んだフレーズが幾つかあった。

「お客様に信頼してもらう為になにができるか?」

彼から学んだ事は僕の心で生き続ける。

圧倒的な存在感で、頑固で、ワルで、無邪気で、ストレートで、くそ真面目で、とてつもなく苦労してきて、ヤンチャで、スケベで、究極の商売人だった。

彼のお客さんになってみたかった。

天国で彼が「オレもまさか死ぬとは思わなかったけど、人生そんなもんだよ。がははははは」と大声で笑っている姿が想像がつく。いま思えば初めて会ったときの彼は今の僕の歳と変わらないんだなぁ。

家に帰って一人で泣いた。

お会いできた事に感謝します。僕を信頼してくれた事を一生誇りに思います。
心からご冥福をお祈りします。ありがとう。

小さな本

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40年前って皆さん何してました?(こりずに・・・)

あ、生まれてない人も多いんでしょうね。
僕は生まれていましたよ。いいでしょ?(笑)

40年前の7月のある日、その夜地元の夏祭りだったそうで、その日の朝、僕の父は母親に、

「今夜はみんなでお祭りに行こう。早く帰るから子どもたちに浴衣を着せておいてね。」

みたいな事を言って仕事に行ったとの事です。物心もついていない僕は当然覚えていません。

父は5人兄弟の末っ子で、彼の兄達は皆超優秀。エリートとして成功し都会で生活していましたが父は地元に残って母と恋をしました。
父は僕と違って大男のマッチョなスポーツマン。サッカーのゴールキーパーとして活躍していたそうです。

そしてその夏の日の夕方、母親に届いたのは、父が突然倒れて息を引き取ったという知らせだったそうです。
脳溢血でした。三十代、早すぎる死。

突然の訃報に、夜集まった親戚の人たちは、何も知らず浴衣を着て父を待ち、はしゃいでいる幼い僕と2人の姉を見て言葉を失ったことでしょう。

残された年老いた父の両親と3人の小さな子供。それからの母の苦労などはBlogで語るような軽いものではないと思うので割愛します。

いざとなったら女性にはかなわない。僕はいつもそう思っています。

そして、何一つ苦労もせずに幸せに大人になった僕は、父が他界した歳をとっくに超えています。

親を亡くして悲しみにくれている人と話すときにいつも言います。
「思い出がある分辛いけど、幸せだったね。」って。

父の思い出は色あせた写真しかないのですが、祖父は僕を大切にしてくれました。
風呂にはいるといつも大きな声で歌を唄ってました。顔が長かったです。

祖父は頑固な教育者で、戦後から何十年も地元の一番大きい小学校で校長をしていたとのことで、僕が高校に入る頃には95歳を超えていましたが、高校の数学がわからないときに祖父に教えてもらったような気がします。
なのに音楽とデートに夢中な僕は学校の成績はいつも思わしくなく、祖父に「大人になってもタバコだけは吸うな」と子供の頃からいつもいわれていたのですが・・・。高校の時、一度だけ僕のコンサートに来てくれました。

僕の名前は祖父がつけたといいます。「紀」という字が使われてるのですが、「21世紀になったら活躍するように」との思いがあったそうです。
後に気づいたのですが、僕の始めた小さなビジネスの年間売上が3億円を超えて、今の会社の代表取締役に就任したのが21世紀になった年、2001年でした。
もう9年経つんですね。9年前って皆さん何してました?(もう最後ですw)

そんな祖父が、父が他界したあと、幼少の僕に地球儀と百科事典を買ってくれました。もちろん僕は意味も分からない歳です。
その地球儀は実家の僕が住んでいた部屋の古いアップライトピアノの上にまだ置いてあります。当然ロシアもドイツもいまとは違う記載です。

そしておまけでひとつの小さな本。

「世界の名言」

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1970年7月10日に発行されたこの小さな本がまだ僕の手元にあります。
大人になってから初めてページを開いたと思います。色あせていくつかのページは外れかけて。
何度も引越しをしてきましたが、何故か忘れた頃に読み返しています。

数日前、この本の事をふと思い出して深夜に家中を探して見つけて、全部読みました。

40年前の本に書かれた名言なので、そのまた何十年、何百年も前の言葉たちだと思うけど、その内容は今の社会の事を風刺しているような言葉ばかりでした。

それはまるで今の国際紛争、鳩山政権、オバマ大統領、政治家の汚職、競争社会、テロ、デフレ、マネー、ビジネス、教育、恋愛、メタボ、ティーンエイジャー・・・。

機会があったらその言葉たちを紹介できたらと思うけど。

また何年か歳を重ねて読む機会があると思う。そして、いつの時代も人間のやっていることは、実はあまり変わっていないんだと思うのかも。

まぁ、無心で今日を生きよう!

「XX年前、何してました?」シリーズはこれで一応おしまい。

本気ですべてが中途半端な記事で終わっているこのBlog、みなさんお元気でしょうか?
突然ですが旅エッセイ、最終回です。別エッセイは半分書き終わってますが、公開することは無いでしょう。


途中からの方はこちら↓
第1話:CONTAX T2とNew York
第2話:T2との旅、その2
第3話:T2との旅、その3
第4話:T2との旅、その4
第5話:T2との旅、その5


(前回のつづき。)

素敵な添乗員から夕食の誘いを受けたローマ最終日。もちろんとてもいい気分で市内に向かう地下鉄に乗っていた。

クリスマスにうかれた街の広場には新鮮な野菜を売るマーケット、移動遊園地のメリーゴーランド、大道芸人のパフォーマンス。まるで絵本の中の世界だった。

色とりどり、カラフルなチューイングガムやお菓子を売る屋台の近くで、長身なイタリア人の若者が「Hey! Nakata!」と例のごとく笑顔で近づいてきて、右手に持った毛糸を持ってみろと勧めてくる。
華やかな雰囲気の中、フレンドリーにされるとついついノッてしまいそうだけど、危険。もちろん無視。
後で同じツアーの若者が引っかかったことを聞いた。その毛糸をつまむと、そのイタリア人の着ているヴィヴィッドな色のセーターがどんどんほどけていく。そしてすぐ仲間が数人集まってきて「なんてことをするんだ!弁償したらどうだ!」とばかりに取り囲んで、何ユーロかを巻き上げるという、気弱な日本人観光客向けの良くある話。

昼下がりのローマの街とビールとピッツァを楽しんで早めにホテルに戻り、冬で汗もかいていないのになぜかシャワーを浴びて彼女との待ち合わせの時間を待った。帰国のための荷物を整理しながら、残り少ない服のなかから彼女のおすすめのレストランに着ていく服を迷っていた。悪い時間ではなかった。

「6時にロビーで。」という彼女の言葉を思い出しながら、もちろん少し早めにロビーに向かった。上層階からゆっくり降りてくるエレベーターがもどかしかった。

ロビーに彼女の姿はまだ無かった。しばらく待っていた。何度も時計に目がいった。

同じツアーに参加していた親子が偶然エレベーターから下りてきた。少し会話を交わした。
母親は「息子が街のマーケットで嫌な思いをして、すっかり落ち込んでいて・・・」。
例の毛糸男の話だった。僕は上の空で聞きながら眼では彼女を捜していた。

ふと嫌な予感がした。

おしゃべりなそのマダムは息子の話が終わると・・・。

「あら、ご一緒で良かった。添乗員さんに誘われたんですよね?夕食。」

予感は的中した。
寝ぼけてとった電話で勘違いだったのか?思わず笑ってしまった。

しばらくすると彼女がエレベータから笑顔で降りてきて、小走りで僕に近づきこう言った。

「結局、お食事11人になったんです。そのうち2人が今ホテルに向かってるみたいなので私は後から行きます。お手数ですがフロントでタクシーを呼んで皆さんを先に連れて行っていただけますか?人数が確定しなかったので予約していませんが、よろしくお願いします。これが店の住所です。」

小さなメモを受け取ると、ぞくぞくと見た顔が僕らのもとに集まってきた。あのカップルはいなかった。

平静を装った僕は「わかりました。11人ですね。」と笑顔で言った。多分引きつっていた。
フロントでタクシーを3台呼んでもらって、彼女の渡してくれたレストランの住所のメモをポケットに無造作に突っ込んだのは覚えている。

タクシーに分乗しレストランにつくと幸い席は空いていそうだった。人数を伝えなんとか大きなテーブルを確保し、しかたなく皆の注文をまとめてオーダーしたあたりで、彼女がやってきた。

「助かりました。頼りにしてしまって。」

今回こそは本当に添乗員になっていた。まったく。海外が初めての例のカップルならまだしもプロの添乗員までも頼りにしないでよ。

大きなガッカリを胸に、けどちゃんとがんばってしまう自分が滑稽だった。

行きの成田から気になっていたどう見ても女装している男性は、そのレストランでも「女性用トイレはどこですか?」と低い声で僕に聞いてきた。「知るかよ。僕だってローマ初めてだよ!」と言いたかったが、僕は大人だった。

それでもたくさんワインを飲んで、楽しく話をしてローマ最後の夜は更けていった。どうやってホテルの部屋に帰ったかを覚えていない。

翌朝早く僕らはホテルをチェックアウトして、バスでレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港に向かい、パリのシャルル・ド・ゴールへ向けて飛び立った。

パリの乗り継ぎでまた問題が発生した。数時間前、ド・ゴール空港でアメリカ行きの航空機に搭乗しようとした中東系の男の靴のかかとからプラスチック爆弾が見つかった、と。世界中で大きく報道されていたらしい。
むろん搭乗手続きに時間がかかり、検査では僕も靴を脱がされ、厳密に靴のかかとをチェックされた。昨年、パリ公演の帰り便で革靴だった僕はやはり靴を脱がされたが、その当時はそんなことがなければそこまでしなかったと思う。

成田へはクリスマスイブのフライトだった。ベルトサインが消えるとエールフランスの客室乗務員が全員サンタクロースのコスチュームでお菓子を配って回った。粋な演出だった。

その便は比較的すいていた。そして例のカップルと座席が隣だった。最後の夜の食事はやはり誘われたが、部屋で引きこもっていたらしい。僕らは「写真を送るよ。」と住所を交換した。

実は今はやしている僕のヒゲはこの旅の間、全く剃らなかったことから始まった。例のカップルの彼女が機内で僕に「ヒゲ伸びましたね。」と。そして自分の若い彼に「ぜんぜん剃らなかったのにヒゲ伸びてないね。」と言った。その彼は、なにか子供扱いされたような感じで、その彼女に返す言葉をつまらせていた。無性にその二人がかわいかった。


僕は帰国して今まで通りの日常に戻った。現像されてきた百数十枚のT2の写真のなかから例のカップルの写真をチョイスして、教わった住所に郵送した。何日かしてカップルの彼女から絵はがきが届いた。大きく丸い文字だった。

「素敵な写真をありがとうございます。おかげで初めての海外旅行をなんとか楽しめました。こちらの写真は比べ物にならないくらい写りが悪いのでお送りできません。やっぱりカメラが違うんですね。」と。

カメラも違うけど、腕も違うでしょ、とまだ未熟な僕はそう思いながら、彼らが住む知らない土地のきれいな絵はがきがうれしかった。確か日光の絵はがきだった。いまはどうしているだろうか・・・。

添乗員の彼女は僕の街から車で30分くらいのところに住んでいて、携帯電話の番号も知っていたが、もちろん一度も連絡することは無かった。彼女が教えてくれたフィレンツェの路地の小さな両替屋のレートの良さと手数料の安さには感謝している。


忘れられない旅になった。

僕のカメラと知らない人と初めての街。

ありがとう。

おしまい。Fin.

仕事もばたばたしてましてなかなか書けませんでした。ま、こんな時代にそこそこ忙しいのは幸せかもしれません。
実はいまこの話とは別の短編エッセイを書いていまして、それはまだ非公開ですが、旅は続きます。

途中からの方はこちら↓
第1話:CONTAX T2とNew York
第2話:T2との旅、その2
第3話:T2との旅、その3
第4話:T2との旅、その4


ローマ、素晴らしい街だった。

ローマ市内に入り、車がヴェネツィア広場にさしかかったとき、もう、完全にこの街にやられてしまった。

郊外のホテルにチェックインして、すぐに地下鉄で市内に入った。
地下鉄は思ったより近代的で清潔だったが、物乞いをするジプシーの少女や、どうみても危険な香りがする人々が多く、貧富の差がある大都会なんだなとつくづく思った。
滞在中、何度かスリに遭遇した。人ごみで何食わぬ顔でバッグのファスナーを開ける。やめろ、と手を払っても何食わぬ顔で消えて行く。
スリは決まってまともな格好、いや、どちらかというとキレイに着飾っていた。毛皮を着たマダムもいた。
また観光客目当てのキャッチセールみたいな男たちは決まって日本人男性をみると、「ナカタ、ナカタ」と声をかけて来た。
ちょうどそういう時代だった。
地下鉄のホームでベンチに座って列車を待っているとき、白人の若者と短い会話をした。テキサスから来て、ローマの大学に通っていると言っていた。

中心街で気になったのは日本語の看板とか張り紙が多い事。
インターネットカフェの看板。「PC日本語使えます。」
レストランのドアに。「日本語メニューあります。」
こういうのは冷める。
余談だが昨年パリのノートルダム大聖堂で見た「Welcome」が数カ国語で書いてある大きな垂れ幕。ひらがなで「よこそう」って書かれた間違った印刷を上から「ようこそ」に手書きで書き直してあった。パリで大笑い。

けど、ローマは最高。
コロッセオフォロロマーノサンタンジェロ城
中でもバチカンは素晴らしかった。ほぼ1日をここで過ごした。
偶然、ローマ法王が窓からクリスマスの謁見をしていた。
美術館に入る警戒は空港以上に厳重だった。空港のような金属探知のゲートを通ったあと、完全防備の兵士に網状の金属探知機で全身を調べられた。

圧巻だったのはシスティーナ礼拝堂と、サン・ピエトロ大聖堂で巨大な防弾ガラスに覆われたミケランジェロの「ピエタ」。言葉を失った。
大理石で出来た皮膚も、筋肉も、血管も、髪の毛も、シルクの裾も、全て恐ろしくリアルだった。天才っていうのは本当はこういう事を言うんだろう。

ローマ2日目の夕方、スペイン広場の階段に座って地図を見ていると、久しぶりにあのカップルが僕を見つけて声をかけて来た。この大きな街で凄い偶然。

「やっぱカメラ買ったんですよ。」

彼は満面の笑みで、手に持った「写ルンです」を見せてくれた。

僕は「じゃそのカメラで二人を撮ってあげるよ。」といって、プラスチックのファインダーでアングルを決め、ローマの街をバックに二人の写真を撮った。
シャッターの感触はとても頼りなかった。もちろん二人はサングラスをかけて、例のピースサインをしていた。

彼が僕の写真も撮らせてくれと言うので、僕もピースサインをしてみた。
僕のT2で自分を撮ってくれとは彼には言わなかった。なんとなくね。手渡す気がしなかった。
いくつか雑談をして、僕は彼らと別れて街を歩き、テルミニ駅地下のスーパーマーケットで酒とつまみを買い、歩き疲れた僕はタクシーでホテルに戻った。多くのタクシーはムルティプラだった。

翌朝、部屋の電話が鳴った。
寝ぼけながら電話をとると、とても親切で知的なあの女性添乗員からの内線電話だった。彼女は偶然僕と同郷で、嫌いなタイプではなかった。

「突然すみません。ローマに来るといつも行くおいしいレストランがあるんです。明日は日本に帰るので、良かったら今夜ご一緒しませんか?」

断る理由は無かった。

「では、夕方6時にロビーで会いましょう。」

僕は部屋のカーテンを開けた。眩しくいい天気だった。

つづく。

旅は続きます。

途中からの方はこちら↓
第1話:CONTAX T2とNew York
第2話:T2との旅、その2
第3話:T2との旅、その3

(前回のつづき。)


Buono! Buono!
(美味い、美味い)

月曜日の朝、フィレンツェに入り初めての食事は少し早いランチ。僕は市内の小さな安食堂にいた。美しすぎる街並に、僕はあのカップルの事を既に忘れていた。

セルフサービスで沢山の新鮮なサラダと生ハム、いくつかのパスタを好きなだけ、そしてもちろんBirra Moretti(ビール)をトレーに載せて、近くの現場で工事をしている地元の作業員風の大男達とレジにならんだ。
ビールの栓抜きを探して、レジにいる僕の英語は通じない年配の店主に、テーブルからジェスチャーで「栓抜きが欲しい」と伝えると、嬉しそうに店主は僕のテーブルの側面を笑顔で指差した。
テーブルの通路側の天板側面に釘で打ち付けられたヒモに栓抜きがぶら下がっていた。こういうのいいねぇ。

もう、美味い、美味い。この食事は忘れられないね。

350px-Uffizi_Gallery,_Florence.jpgお目当てのウフィツィ美術館は、月曜日は休館日。ただ年に一度クリスマス前のこの日だけは開館するという。そのことはあまり知られていないとの事で、普段はものすごい混雑する美術館もガラガラ。 教科書で見るようなダビンチ、ミケランジェロなどのルネサンス絵画が、触れられそうな距離で防弾ガラスも無く見る事ができる。

トスカーナの古都、世界屈指の芸術都市であるこの街の雰囲気は圧倒的だった。沢山歩いてT2で写真を撮りまくった。

いつも旅の食事は地元の食堂や総菜屋などに行く事が多いが、まる2日フィレンツェの街を満喫した最後の夜、郊外のホテル、シェラトンフィレンツェに戻り、たまにはホテルのレストランで食事をしようと思い立った。


品のいいレストランで案内された席に向かおうとしていたとき、突然、僕の名前を呼ぶ声がした。嫌な予感がした。

奥のテーブルにあのカップルがいた!忘れていたのに。

「お知り合いですね?ではお隣のテーブルへどうぞ。」とばかりに給仕は僕の席を二人の隣のテーブルに変更した。

お客は全て外国人。二人は大ピンチに現れた救世主でも見るように立ち上がって嬉しそうに僕に手を振っていた。店内にいたお客がみんなこっちを見ていた。二人はかなり酔っぱらっていた。

彼:「てかぁ、メニューが全部イタリア語(もちろん英語でも書いてあったが)じゃないすかぁ。オレら何を頼んでいいかわからなくて。んで最初に適当に頼んだワインを続けてもう3本飲んじゃったんです。助けてください。」

二人が何が食べたいかを聞いて、自分のオーダーと一緒に適当に頼んであげたが、もうかなり飲んでいた二人はほとんど手をつけなかった。

「旅は楽しんでる?」って聞いても。

「ホテルが郊外だから、街に行くのもバスやタクシーに乗るの緊張するじゃないすかぁ。街でも食事も困るので、あまり出かけてないんす。」

何とももったいない。

「けど、サングラス買ったんです。途中のアウトレットで。」とまたもや派手なサングラスを見せてくれた。

明日から念願のローマ、けど間違っても彼らに「じゃ、明日は一緒に観光しようか?」なんて言葉はさすがに親切な僕でも出てこなかった。

贅沢なイタリアンとワインで満腹になった僕は彼らと別れ部屋に戻った。

つづく。

旅は続きます。

途中からの方はこちら↓
第1話:CONTAX T2とNew York
第2話:T2との旅、その2


(前回のつづき。)

近くで見るそのカップルは真冬だというのに、日焼けサロン通いだろうか、かなりガングロだった。

僕はやや不機嫌ながらも、外面はいいので、日本語が通じるかもわからない(笑)謎のカップルにとてもビジネスライクに聞いた。


僕:「どうかされましたか?」

彼:「遅くに本当にすみません。」

僕:「はい?」

彼:「今夜一緒に食事をしてもらえませんか?」

僕:「えっ??せっかくの旅行なのに彼女とお二人で過ごされたらどうですか?」

彼:「いや、お願いします。マジでお願いしますっ。」

僕:「・・・わかりました。僕も食事に出るから、じゃ30分後にロビーで会いましょう。」


なんだかわからないけど、かなり真剣な面持ちだったので、僕はなぜか断れずにそう言った。
僕はこの旅の最初の夜を知らない若いカップルにつき合う事になった。

少し早めにロビーに降りると既にあのカップルがニコニコしながら待っていた。

ヨーロッパ屈指のリゾート地とはいえ、真冬のニースの街はどんな雰囲気かなぁ?と興味津々だったが、ホテルの前の大きな広場は眩いばかりのクリスマスイルミネーションでおとぎの国のようだった。

ホテルを出て、歩き出した僕は名前も知らないカップルにまず自己紹介をした。そして「どうして僕の部屋へ来たの?」と聞いた。

彼:「オレら、つき合いだしたばかりで、実は初めての海外旅行で、勢いで行く事にしちゃったんすよ。けど、ほんとは出発前から不安で不安で。てか、こんな知らない国で夜遅くに二人っきりにされたら、オレらどうしていいか。言葉もわからないじゃないっすかぁ。んで、成田で見かけた時から、なんか困ったらこの人に相談しようとなんか勝手に決めていたんすよ。部屋も何号室に入るか二人で見ていたんです。」

てか、ほんと勝手に決めるなよ。相談するなら旅行会社にして欲しいけど。部屋まで確認して、ほとんどストーカーだよ。

結局、僕は二十歳そこそこのカップルと冬の素敵なニースの街を歩いた。

僕:「ほら、この広場とても綺麗だから二人の写真撮ってあげるよ、カメラ貸して。」と言った。

すると、

彼:「やっぱ、カメラとか普通持って来た方がよかったっすよね?」

彼女:「ほらあ、だからカメラ持って行こうっていたじゃんっ。ばかぁ。」

初めて彼女の声を聞いた。

しょうがない、僕はT2でニースの街に降り立った異星人カップルの写真をスローシンクロで何枚か撮った。これが、かなり良く撮れた。
美しい背景とはうらはらに、カップルは二人揃って場違いなピースサインをしていた。

「少し歩くと地中海の海岸に出るはずだよ。せっかく来たんだから、行ってみる?」となぜか僕は新婚旅行の添乗員みたいになっていた。僕も初めての街なのに。

月明かりの夜の海岸でようやく安心してきた二人は、波打ち際で裸足になってはしゃいでいた。そのとき、二人の視界に僕はいなかった。僕は早くビールが飲みたかった。そして指先で触れた南仏の地中海の水は真冬なのに暖かかった。

僕らはいくつかのレストランを物色した。時間も遅かったので、多くがもうラストオーダーの時間を過ぎていた。

僕は二人に「明日から僕らはイタリアに入るので、せっかくだからフレンチにしておく?」とあらかじめ聞いたが、

彼:「あっ、てか、オレら、よくわからないんで、食えれば何でもいいっすよ。」

がっかり。

せっかくのフランスなのに結局、僕らは清潔そうなイタリアンレストランに入ることにした。僕はビールが飲みたくてそれ以上歩きたくなかったから。

食事をしながら僕は知らない遠くの街から来た知らないカップルの、一緒に暮らしだしたなれそめ、この旅に行く事になる迄の経緯、お互い相手のどこがムカつくか、など多くの話を聞く事になる。詳細は忘れたが、印象が悪かったこの若者達を僕はすこし「なんか、かわいいなぁ」と思い始めていた。性格上、頼りにされるのもイヤではなかった。

ただ、ホテルに戻り部屋の小さな窓からあの素敵な広場を見ながら、僕のこの旅をあのカップルの添乗員で終わらせるのはゴメンだと、本気で思った。そして成田で見たカルロス・ゴーンの側近が引いていたいくつもの見た事も無いルイ・ヴィトンの大きなスーツケースはきっと高いんだろうな、と思った。

次の朝早く、僕らはモナコを通り、高速道路で国境を越え、フィレンツェに向かった。

つづく。

300px-National_Park_Service_9-11_Statue_of_Liberty_and_WTC_fire.jpg僕が以前マンハッタンを訪れたとき、誇らしげにそびえ建っていたツインタワー。 そのワールドトレードセンターが崩壊した悪夢の2001年。

その年の年末に僕はT2と成田空港にいた。シャルル・ド・ゴール空港に向かうエール・フランスに搭乗するために。

思いつきで参加した良くある格安ツアーだった。航空機と移動手段とホテルがついて後は勝手にしてくれ、という感じで集団行動が苦手な僕にはぴったり。

テロの直後ということもあり、成田には警察犬をつれた警官が沢山いた。荷物のチェックも厳しくとても待たされた記憶がある。いつもの成田と違う雰囲気だった。

チェックインカウンターで感じのいい女性添乗員が「今は抜き打ちで怪しいスーツケースは鍵がかかっていても壊して開けるから、鍵はかけない方がいいみたい。」と言った。
怪しいものなど入っていなかったので僕は迷わず鍵をかけてチェックインした。

同じツアーに参加する人の中に、どうも僕とは気が合いそうにない若いカップルがいた。
二人とも金髪でいくつもピアスをして、フレームの両脇に大きいブランドのロゴがついているサングラスをしていた。夜なのに。
まあ、一緒に行動するわけではないし、この時は気にもとめなかった。
僕らの乗る便はその日の最終便で搭乗待ちのレストランも閑散としていた。

食事を終えて、ふと見るとあのカルロス・ゴーンが2人の側近を連れて僕らとは違う通路を歩いていた。その時は「同じ便でパリに向かうのかなぁ」と思っただけだった。

そしてなぜか搭乗手続きがいっこうに進まない。

「ファーストクラスからのダウングレードしていただけるお客様を探しています。」

日本語の上手なフランス人スタッフがそう言っていた。エコノミーの僕らには関係ないが、高い席から搭乗するので一向に搭乗できない。
さっき見たカルロス・ゴーンが急遽、僕らの満席便に無理矢理乗る事になったのだろう。
彼がボスを務めるルノーと、エール・フランスはともにフランスの国営企業みたいなもの。彼のわがままはどうにでもなるだろう。

結局1時間ほど遅れて成田を飛び立った僕らの便。
ベルトサインが消えると、機長のアナウンス。

「本日はテイクオフが遅れた為、通常とは違うルートでフライトします。パリには予定通りに到着します。」みたいな事を言っていた。

十数時間のフライトの後、結局予定通りどころか、1時間も早くドゴール空港に僕らは降り立った。ゴーンがよっぽど急いでいたんだろう。
朝5時の空港で空いているコーヒーショップは1つ。時間をつぶすしか無い。

そこから僕らは国内線でニースに向かう予定だった。当然、荷物もその便にトランジットされていた。
そしてまたもやアクシデント。

その国内線に積まれた荷物の一部が、検査機器の故障で危険物のチェックが出来なかったとかで、危険だと機長がフライトをボイコットした、と。

さすがフランスの公務員。まあテロ直後だったしね、機長が有する権利だそうだ。

僕らはその便から自分の荷物が出てくるのをド・ゴール空港で2時間待った。そして別の便に乗る為、エール・フランスが用意したバスで、パリ近郊のオルリー空港に向かった。

オルリーにつくと、エール・フランスのスタッフは「ご迷惑をおかけしたので食事を用意しました。このレストランで好きなものを食べてください」みたいな事をいった。
もちろん、たらふく食べた。オルリー空港は成田以上に厳重な警戒だった。全ての建物の四隅には自動小銃を抱えた兵士の陰が見えた。

小さなジェットに乗って、昼につく予定だったニースの街についたのは結局夜だった。
疲れ果てていた僕は、ホテルにチェックインしたら近くで適当な食べ物とビールを買って眠ろう、と思っていた。

ニース中心街の古い小さなホテルの部屋に入って、荷物を置いてタバコに火をつけたとき、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

ドアの外からは日本語が聞こえた。

「すみません」と。

ドアを開けると廊下には成田で見かけたあの、ブランドサングラスのカップルが申し訳なさそうに立っていた。


つづく。

R1052392.jpg名器「CONTAX T2」。


ポルシェデザインのボディはチタン合金で、ファインダーにサファイアガラス、レリーズボタンは人工多結晶サファイア、そして、かのツァイスレンズ、ゾナー38mmF2.8を装備していた。その高級感と味のあるシンプルさは、衝撃的であり、大人な男の道具だな、と若い僕は感じた。

90年代初頭、自分も少しは大人になってきたなぁ、と勝手に感じていた僕はこのカメラを手に入れた。ブラックチタンの特別仕様でデータバッグを入れて確か15万円近くした。ズームも無いコンパクトカメラのくせに。当時の収入を考えたら良く手を出したなと思う。もちろんデジタルカメラなんてものは世の中に存在していなかった。

濃厚な発色と美しいぼけ味。単焦点コンパクトで高品質という意味で、今でも日常スナップ旅カメラとしてGR DIGITAL IIを愛用する発端となった思い出のカメラ。十数年経った今も、使っていないのになぜか手放せない。


そのT2を手に入れて初めての旅は10月末のマンハッタンだった。


インディアンサマーとは裏腹に、すっかり秋色のセントラルパーク、
ハロウィンに浮かれるニュージャージーの小さな小学校の子供達、
パークアベニュー沿いのホテルから見える街角、
夏時間最終日と満月とハロウィンを同時に迎えて混沌としたタイムズスクエアの鼓動、
5thアベニューのストリートミュージシャン、
月のイーストリバーにかかる真夜中のブルックリンブリッジ、
まだ落書きだらけだった地下鉄の駅、

そして、一緒に暮らし始めたばかりの彼女を撮りまくった一週間。


ニューヨーク最後の夜、チャイナタウン近くのスペイン料理屋でたらふく飲んで食べた後、Bob(米在住のいとこの夫)は眠そうな目をこすりながら言った。


「観光客なんて一人もいない、誰も知らない最も美しいマンハッタンの夜景を見せてあげるよ」と。


しばらくして彼の車はトンネルに向かった。FMラジオからはベタなアレンジで「Over the Rainbow」の女性ボーカルが流れていた。流れる景色とJAZZ、すべてがスローモーションに感じて映画のようだった。

そして、僕らはハドソン川沿いの鉄条網に囲われた未舗装の大きな空き地についた。半径数百メートルに人の陰は無かった。それ迄の喧噪が嘘のようだった。


そこから見る対岸のマンハッタンのとてつもなく巨大で人工的な輝きと美しさを見て、なぜか涙が出てきた。少しだけ風が吹いていて、遠くに聞こえるクラクションやサイレンなどのミッドタウンからのノイズが心地よかった。

そして、そのときはまだ、誇らしげに輝くあのツインタワーがそそり建っていた。


いくらか年月が経って、サンフランシスコ港の駐車場でトイレを出たとき、固いアスファルトの地面に愛していたT2を落としてしまった。
とても不機嫌になった僕は、その旅の間、彼女といくつかの喧嘩をした。

若かったんだね。今でもT2のそのへこみはそのまま。

もう少し大人になって仕事で訪れた横浜のある会社の役員室でガラスケースの中になぜかT2があって驚いた。
わけもわからず興味を示した僕にその会社の役員は「この表面の窒化チタン加工はいまでも世界中でうちの会社でしかできないんですよ、もうこのカメラ、造ってないけど。」と・・・。

つづく・・・(かも)。

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